「幸せのかたち」 (卯の花饅頭 連載を終えて)
 昨日、私はひとつの大きな決断を迫られた。
 そして、大切な人との別れを経験した。

 私にとっては手間ばかりかかる相手で、彼のおかげで、えらいこっちゃの面倒をいくつも被っては、「まったくもう!」と怒ってばかりいた。
 だが、いざ、こうして彼が出て行ってしまった部屋をみていると、その寂しさははかりしれない。

 彼は、私の仕事場に間借りをし、私の仕事を手伝ってくれていた男の子で、お金にならない仕事ばかり選ぶ私に文句をいいながらも、気長につき合い、私のほうも「ほんと 仕事のろいよね〜」「センスないんだから」と、むちゃくちゃなことを言いながら、結構頼りにしていた。

 ruimamaと彼って どういう関係なん?と よく聞かれた。
 成熟しきれていない半端な人間コンビで、「二人合わせても60%くらいやなぁ」と、いつも自分たちを笑っていた。60%の力しかないから、まわりのみなさんの力を借りて、なんとかぼちぼちやっている。そんな感じだった。

 そんなできそこないの相棒でも、傍らから突然いなくなると、その空間はひんやりと冷たく、寂しく切なく、叫びだしたいような悲しみが襲ってくる。

 別れた理由は単純なことだ。
 同じ場所に長くいて、同じ試練を何度も味わううちに、お互いの言葉のひとつ、動きのひとつにも、意味があることを知ってしまった。

 若い彼は、ストレートに思いを口にした。
 ずいぶん年上の私は、そんな無理難題は受け入れられないと、彼をつっぱねた。どう考えても破天荒すぎる考えだった。

 「幸せになりたい」と彼は言った。
 もちろん私も「幸せになりたい」と思っていた。けれど、それは現状を崩してまで手にいれる幸せではないと思った。私は長く生きた分、知恵もつき、ずるくもなっていた。

 「幸せのかたち」は人によって違い、時間によって変わり、環境によって善とも悪ともなる。
 出発のところは同じでも、行き着く駅は違っている。


 小説「卯の花饅頭」を書いた頃、私は、今よりいくらか若く、純粋にこの二人の主人公を愛した。
 不器用にしか生きられない30代の男女が、なんとか幸福になれないものかと、毎回考えてもいた。
 でも、小説というのはおかしなもので、筆者が生み出した人たちであるはずなのに、性格・個性がはっきりすればするほど、その中の人たちはどんどん自分で動き出してしまう。
 サブも、京子も、決してお互いを嫌いではないのに、書けば書くほど遠ざかり、遠ざかることでお互いのほんとうの優しさに気付いた。

 一緒になることだけが「本当の幸せ」ではない。
 「忘れられない人」と、一生のうち何人出会えたか・・・
 それも幸せのかたちだと・・・今の私は強く思う。


ruimama